再読:俺の後輩がこんなに可愛いわけがない

読み直しました。いやーこれはよくできています。

ネタバレあり。

 いけださくら「俺の後輩がこんなに可愛いわけがない」(全6巻)は、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のスピンオフ、いわゆる黒猫ルートです。

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2015年に完結したあとちょっとして入手して、一応読んだのですが、当時アニメ1期くらいしかみてなかったんですよね。「俺の後輩」は桐乃がアメリカ留学で去ったところ、つまりアニメ1期の終わりからはじまるので、物語は無理なくつながって理解できるんだけど、それじゃあこの凄味がわからないんだよ。

これはアニメ2期(まだ未見なんだけど原作後半)を完走してからみると、おおーっとなるのです。

僕のみてきたスピンオフの多くは、作品序盤に本線世界からなにか分岐のきっかけになるイベントがあって、そっからまあ急激に分岐して別世界になるわけです。たとえば極端な例だけれど「魔法少女ほむら☆たむら」や「見滝原幼稚園まほう組」などがわかりやすいかな、本線の悲惨なタイムリープの一つとして偶然シュールだったり、ほのぼのだったりしたところに着地してしまうところから話が始まるわけですね。

あるいは、登場人物は同じなのに、最初からみるからに世界のルールが違っていることを感じさせていくパターンもありますね。また極端な例では「巴マミの平凡な日常」とか、碇シンジ育成計画とか、僕がいつまでも引きずっている「長門有希ちゃんの消失」も実はこのパターンでした。有希ちゃんはプロモーションがあざとくって、主題歌「ありがとう、だいすき」PVでは文芸部室でパソコンのエンターキーに手をかけて離す演出など、これは本線「涼宮ハルヒの消失」の分岐なのだと強烈に印象付けたものだから、ツイッターリアタイ勢は一体どのような分岐でこの世界が可能になるか熱く語り合ったものですが、あとで原作ぷよ先生はそうじゃあないんだと。それはそれでよいのですが。

で、「俺の後輩」はそうじゃないんですよ。

全6巻を読み進めると、アニメ2期の各エピソードが、(そりゃあ割愛や粗密はあるけれど)ほとんど同じ形であらわれます。決定的な分岐というのは第6巻の最後まで現れません。黒猫は京介に告白しひと夏を過ごしたあと別れてしまうところまでが、いや桐乃が草津温泉で黒猫を見つけた後の対決までもが同じように繰り返されるのです。

ええー大丈夫なのこれ?? と心配するのは、アニメ2期部分の知識がないとできません。

しかし京介はここで黒猫を選ぶ。それがぜんぜん不自然じゃないのです。

もちろんそこまでに積み重なった違いがあって、京介がちょっとだけ黒猫を気遣っているのを明言することもあるけれど、それだけでは決定的とは思えず、むしろ黒猫さんの心理描写が克明にされることとのほうが印象的でしょうか。

でもそれって客観じゃないじゃないですか。

つまり、意地悪くひっくりかえしていえば、アニメ2期の世界でも黒猫は同じように感じていたはずで、同じ結末が接続しうるわけです。

商業コミック単行本6巻のこの規模でこんなの見たことないですよ。

だんだん眠くなってきたのでこのへんで終わります。

(7月18日追加)

当初なんでこんな変な読み方順をしたか。それは「長門有希ちゃんの消失」アニメがでたときにさかのぼります。

「有希ちゃん」はSF要素がすべてなくなって本線とはすっかり設定が変わってしまった世界で、本線に似たイベントやシチュエーションが組み合わされて、まったく違ったラブコメができる、「スピンオフというよりリビルド」といっていましたが、そこに味わいがあるとされるわけです。でも、本線ハルヒがなくても自立して楽しめないかな? そうおもって、あえて(残念ながら原作は5巻消失まで読んでしまっていたけれど)劇場版「涼宮ハルヒの消失」を見ない状態でテレビ放送を見て、OVAまで終わったあとで、再履修としてまた有希ちゃんみたわけです。これはこれで、細かいところが変わってみえて、一粒で二度おいしかったです。

話戻って、「俺の後輩」は、本線2期を知らないで見るのをお勧めするかっていうと、うーんどうだろうなあ、僕の趣味はどうかしているから、たぶん本線2期1~9話を見てから、あとは「本線ラスト4話は黒猫推しなら見なくていいよ」と僕が言っていたことだけ知ってみるのが一番いいんじゃないかな。そう思いました。